こんにちは。やまもとです。
しばらく積読していた「因果性」(ダグラス・クタッチ2019)を読み進めています。
前回の因果メカニズム説では、下位レベルの法則に基づく諸部分の相互作用のメカニズムによって、私たちは「理解する」(=因果性を確信する)という結論になりました。しかし、因果メカニズム説には、重大な欠陥が2つあります。
- 私たちは、同じインプットに対して同じアウトプットが複数回繰り返されるだけでも、因果性を確信することがある(そのため、メカニズムは必要ない)
- 不作為による因果には、メカニズムを説明する物事や事柄が存在しない(そのため、部分も存在しない)
1つ目の欠陥の例としては、パソコンを考えてみると分かります。例えば、キーボードで「M」キーを押すと、画面上に「M」の文字が出力されます。ここで「M」キーを押してから画面に表示されるまでの内部メカニズムをよく知らなくても、多くの人は「Mキーを押せば、画面にMが表示される」という因果性を確信しているはずです。つまり、「キー入力と画面の文字表示の間には安定した結びつきがある」ということさえ知っていれば、メカニズムを知らなくても因果性を確信することがあるということです。
不作為による因果とは、不生起(何かが生じないこと)・不在・防止・失敗などが原因とみなされるケースの因果性のことです。再びパソコンの例で言うと、不作為による因果とは「ウィルス対策ソフトを導入しなかったため、ウィルスに感染してしまった」といった因果性のことです。ここで、不生起<ウィルス対策ソフトを導入しない>は、特に何かを産出するわけではありません。因果メカニズム説がメカニズムと因果性を「規則的な変化の産出」によって結びつけていたことを思い出せれば、因果メカニズム説では「産出しない出来事に因果性はない」となることが分かるかと思います。しかし、現実では不作為の因果もよく使われ、納得されることも多々あります。
このような問題に対処するために、メカニズムや産出に依存しない「原因は結果に違いをもたらす」(差異形成)を起点とした因果理論として、「反事実的依存性」による「因果の反事実条件説」があります。
ただ、著者のクタッチは、反事実条件説が持つ「(因果が)未来へ影響を及ぼす」点は評価しているものの、この説にはそもそも無理があると考えているようです。
反事実依存性
反事実依存性とは、パソコンの例で言うと、「Mキーを押すと、画面にMという文字が表示される」という因果性を示すのに、「Mキーを押さなければ、画面にMという文字は表示されない」という反事実に依存しているということです。これによって、原因<Mキーを押すこと>が結果<Mという文字が表示される>に差異をもたらすことを表現することで因果性を規定しています。このような「もしAが起こっていたなら、Bが起こっていただろう」という形式の言明を「反事実条件文」と呼びます。
このような、反事実条件文は下図のように整理できます。
これによれば、上述の「ウィルス対策ソフトを導入しなかったため、ウィルスに感染してしまった」(左下のマスに相当)の反事実条件文は、「もしウィルス対策ソフトを導入していれば、ウィルスには感染しなかった」(右上のマスに相当)という言明になります。もし、この反事実条件文が真であれば、因果の反事実条件説では「ウィルス対策ソフトを導入しなかったため、ウィルスに感染してしまった」という因果性が成立しているとみなされます。これによって、不作為の因果にも因果性を認めることができる、というわけです。
因果性判断の手続き
しかしながら、一見して反事実条件説には問題があるよう思えます。その問題とは、反事実条件文「ウィルス対策ソフトを導入していれば、ウィルスには感染しなかった」自身も因果性を前提としていることです。つまり、反事実条件説は「ある命題の因果性を判断するには、反事実条件文の因果性を前提としなければならない」こと、すなわち「因果性には因果性が必要である」こととなってしまい論理が循環してしまいます。これでは、いつまでもたっても因果性を定義できません。
そのため、デイヴィド・ルイスの「因果性」(Lewis 1973)の理論では、「たいていの反事実条件文は、そのもっともらしさを思案するだけで真理値(真偽)を容易に確定できる」という前提が用いられています。ルイスは、この前提を守って因果性を判断する手続きも下記のように示しています。
- シナリオを中で生じた、出来事の原因候補になりうる全ての出来事を考慮する。
- 各原因候補には、「そのシナリオの中で出来事が生じた」という命題が対応して存在する。同様に、は「そのシナリオの中で出来事が生じた」という命題である。
- 2つの反事実条件文「もしが真だったならば、は真だったのだろう」と「もしが偽だったならば、は偽だったのだろう」の真理値を判断する。
- 両方の反事実条件文が真である場合、「命題は命題に反事実的に依存する」と言う。そうでない場合、「命題は命題に反事実的に依存しない」と言う。
- 命題が命題に反事実的に依存する場合、「出来事は出来事に因果的に依存する」と言う。そうでない場合、「出来事は出来事に因果的に依存しない」と言う。
- からに至る因果的依存関係の連鎖が存在する場合、「はの1つの原因であり、との間には因果性が成り立つ」と言う。そうでない場合、「はの原因ではない」と言う。
この手続きでは、「ある出来事」と「『その出来事が生じた』という命題」を区別しています。これは、反事実条件文の真偽を直観的に判断するために、哲学的言語の「出来事」を日常言語の「出来事が生じた」に変換しています。手続きの1〜5をまとめると、下図のようになります。
媒介する出来事
因果性判断の手続き6は、因果的依存が連鎖することを表しています。これは、出来事ciとeの中間にも出来事dが存在しても、因果的依存関係ci→dとd→eが成立しないといけないことを意味しています。この中間の出来事dを「媒介する出来事」と呼び、想定される全ての媒介する出来事について、因果的依存関係が成立するとき、因果的依存関係ci→eが成立することになります。
例えば、上記のパソコンのウィルスの場合、「ウィルスの検出失敗」という中間の出来事が考えられます。このとき、反事実条件文は次の4つになります。
- もしウィルス対策ソフトを導入していなければ、ウィルスを検出できなかっただろう(c→d)
- もしウィルス対策ソフトを導入していれば、ウィルスを検出できただろう(not c→not d)
- もしウィルスを検出できなければ、ウィルスに感染してしまっただろう(d→e)
- もしウィルスを検出できていれば、ウィルスに感染しなかっただろう(not d→not e)
この4条件は、直観的に成立しているように思えます。もし、媒介する出来事が「ウィルスの検出失敗」以外にないのであれば、「ウィルス対策ソフトを導入しなかったから、(ウィルス検出に失敗して)ウィルスに感染してしまった」(c→e)という因果的依存関係が成立し、原因は「ウィルス対策ソフトを導入しなかったこと」と特定することができます。
出来事のもろさ
しかし、実際には、ウィルス対策ソフトが検出できるのは既知のウィルスだけで、未知のウィルスは検出できません。そのため、上記の例は因果的依存関係が成立しません。そこで、出来事e「ウィルスに感染してしまった」を少しだけ改変して、「既知のウィルスに感染してしまった」に変更してみましょう。すると、上記の反事実条件文は、以下のように改変されます。
- もしウィルス対策ソフトを導入していなければ、既知のウィルスを検出できなかっただろう(c→d)
- もしウィルス対策ソフトを導入していれば、既知のウィルスを検出できただろう(not c→not d)
- もし既知のウィルスを検出できなければ、既知のウィルスに感染してしまっただろう(d→e)
- もし既知のウィルスを検出できていれば、既知のウィルスに感染しなかっただろう(not d→not e)
こうすると、未知のウィルスは除外されるので、媒介する出来事との反事実依存関係が成立し、因果的依存関係「ウィルス対策ソフトを導入しなかったから、既知のウィルスに感染してしまった」が成立するのではないでしょうか。
このように、出来事を問題ない範囲で改変できることを「出来事のもろさ」というそうです。この「もろさ」があるため、反事実条件説では、一般的すぎず限定的すぎない「ほどよい出来事」を選択しなければなりません。
利点
因果の反事実条件説には、次のような利点があげられます。
- 原因と結果を結びつける内部メカニズムを必要としない
- 反事実条件文の真理性や正当性を裏付ける構造さえあれば、因果的活力を必要としない(ヒューム主義的)
- 「原因は影響を及ぼす」という因果性の本質に迫っている
- 不作為による因果を説明できる(厳密には反論が多数ある)
利点1,2,4はここまで説明してきた内容ですが、利点3は別途説明が必要でしょう。
「原因は影響を及ぼす」とは、「原因の有無によって結果が異なる(結果に差異が形成される)」ことを意味しています。結果が異なることは、「原因が有った場合の結果」と「原因が無かった場合の結果」を対比することで確かめられます。あるいは、「現実に生じた結果」と「生じえた結果」の対比によって確かめることができます。そして、これは、まさしく上記で説明してきた反事実の対比そのものです。原因が結果に影響することは因果性そのものですから、反事実条件説は「因果性が反事実を対比するある種の差異形成を含んでいる」ことを明らかにしたことになります。
問題点
ここまでの説明で気づいた方もいるかも知れませんが、反事実条件説は多くの問題を含んでいます。
- 反事実条件文の真偽判断が直観的な因果性に基づいており、非循環的に分析できない
- 反事実的依存性が反事実条件文の真理値に基づいており、差異形成の程度を表現できない
- 余剰因果の問題に対処できない
1つ目の問題点は、すでに述べていますが、因果性を確かめるために因果性が必要になるというものです。反事実条件文をいくら直観的に判断するといっても、その判断は日常的に確信している因果性に基づいて行われます。しかし、その日常的に確信している因果性の正しさを確認するためには、別の反事実条件文が必要になります。そのため、因果性の判断←反事実条件文の判断←因果性の判断←反事実条件文の判断←・・・・と、いつまでたっても因果性を判断できません。(厳密には、「因果性の判断」は「因果的依存性の判断」ですが、反事実条件説では「因果性=因果的依存性」と考えています)
2つ目の問題点は、「ウィルス対策ソフトを導入する」と「ウィルスに感染しない」ことが99%保証される場合を考えてみると分かります。この時、反事実条件文「もしウィルス対策ソフトを導入すると、ウィルスに感染しないだろう」は、1%程度は間違いなので、真理値では偽と判定されることになります。そのため、因果的依存性はなく、反事実条件説では「ウィルス対策ソフトを導入しようがしまいが、ウィルスに感染する」と結論されます。これは、「ウィルス対策ソフトを導入すると、大抵の場合(99%程度)はウィルスに感染しない」という妥当性の高い因果性を導くことができていません。
最後の問題点の余剰因果とは、ある結果の潜在的な原因が1つ生じなかったとしても、1つ以上の代替の原因によってその結果が引き起こせる場合の因果性です(クタッチ2019)。この場合、反事実条件文「もし潜在的な原因c1が生じなければ、結果eは生じなかった」は、代替の原因c2で結果eが生じる可能性があるため、必ず偽と判定されることになります。そのため、潜在的原因c1は、結果eに対して反事実的依存性がなく、因果的依存性もないことになります。すなわち、代替の原因が存在すると、因果的依存性は絶対に無いことになってしまいます。
余剰因果に対する対処法として「媒介する出来事」と「出来事のもろさ」がありますが、これらも問題を含んでいます。「媒介する出来事」は因果的依存性の連鎖に基づいていましたが、この連鎖によっていわゆる「風が吹けば、桶屋が儲かる」といったほとんど無関係な出来事同士にも因果的依存性を認めることになります。「出来事のもろさ」は、出来事の詳細化(「ウィルス」を「既知のウィルス」に変えること)をどの程度曖昧なままにすればよいかを決める手立てがありません。これは、私たちの主観や直観で選択しているだけです。
まとめ
反事実条件説は、「反事実的差異形成」という因果性の本質の1つを明らかにしてくれたものの、なんだか無理があるよなぁという印象を持ちました。
また、「人はなぜ理解したと思うのか」という観点では、反事実条件説は説明にならないと思いました。なぜなら、「Mキーを押すと画面にMという文字が表示される」という因果性は、入力と出力の安定的な関係を知っているのであって、理解しているとは言えないと思うからです。例えば、数学の問題を出されて「その答えを知っている」のと「その答えがどのように証明されるか理解している」との違いといえばいいのでしょうか・・・。
5段階のDIKWモデルで言えば、前者は知識層、後者は理解層に相当するように思えます。
つまり、反事実条件説は、知識層レベルの因果性を問題にしているのではないでしょうか。