因果性の哲学②|ヒュームの因果性

この記事は、ダグラス・クラッチ著「因果性」の第2章を読んだときのメモです。

哲学者でないと解説は難しいので、単なるメモになっていますが、あえて素人要約すると「因果関係は、人間の主観なのか、それとも客観的な存在なのか」と言う議論に見えます。

参考文献
 現代哲学のキーコンセプト 因果性

原子論と可能世界

原子論
「実在は、根本的には、からっぽの空間(空虚)を飛び跳ねる無数の原子から成り立っている」とする学説。究極的には、全ての対象はミクロな物質の集まりに過ぎない。

唯物論
「根本的な実在は物質だけから成り立っている」とする立場。

物理主義
「根本的な実在は物理的な物(物理学の授業で習うようなもの)だけから成り立っている」とする立場。

可能世界
宇宙がたどる可能性のある一組の歴史。「根本的な実在がとりうる整合的なあり方」のこと。

ヒューム主義と反ヒューム主義

根本的な力学法則
ある時点の宇宙全体の状態と別の時点の宇宙全体の状態との関係。決定論的法則の場合と確率論的法則の場合がある。

決定論的法則
「もし世界Fがある時点で状態Cにあるなら、その1時間後、Fは確実に状態f(C)にある」というような法則。

確率論的法則
「もし世界Fがある時点で状態Cにあるなら、その1時間後、Fは確率p1で状態C1にあり、確率p2で状態C2にあり、・・・・」というような法則。

ヒューム主義
「現実世界は、根本的に言って、さまざまな時間と場所で起こる無数の物事にすぎない」とする立場。「因果性」「法則」「確率」は、たまたま一致したパターンにすぎず、自然の道行自体を支配しているわけではない。

反ヒューム主義
「現実世界では、法則は自然のうちにあり、そこで確かに作用している」とする立場。「法則」は、宇宙の現在の状態を入力として受け取り、それにもとづいて未来を生み出すか、少なくとも未来の道行きを限定する。

因果的活力と規則性説の問題

因果的活力
「原因から結果を生じさせる何か」のこと。この「何か」を、ヒューム主義では存在しないとし、反ヒューム主義では存在する、と考える。

哲学上の問題
cが原因でeが生じる時、eを生じさせるような何かが根本的な実在のうちにあるか。要するに、「因果的活力は存在するか」

引用:ダグラス・クラッチ「因果性」岩波書店(2019)

因果の規則性説
ヒューム主義に立ち「因果性は根本的な実在の構成要素でないにもかかわらず、人々が因果性の存在を信じてもいいのは、自然のうちにあるどの構造のおかげなのか?」を明らかにするのが目的。今では、ほとんど支持されていない。

規則性説の基本形
「単称の出来事cが原因で単称の出来事eが生じる」とは、以下の3つの条件が満たされることにほかならない。[スタティス・プシロス(2009)]
(1)cはeと時空間的に近接している
(2)cはeに先行して生じる
(3)Cタイプの出来事は常にEタイプの出来事を伴って生じる

(3)が因果的活力を代替できるかが、規則性説のカギ。

引用:ダグラス・クラッチ「因果性」岩波書店(2019)

因果理論の目的(現代哲学者の標準見解)
私たちは前理論的に(理論に先行して)いくつかの因果判断を「真だ」とほぼ確信している。因果理論は、
(1)それらの因果判断と合致すべきであり、かつ
(2)それらの因果判断が真だと言える理由を示し、さらに、
(3)もっとも疑わしい因果判断の真偽を判定できなければならない。

例えば、「足し算」を定義するとき、すでに正しいと分かっている答えや、数え上げて確かめられる答えと合致するような仕方で定義する。コンピュータで言えば、「足し算」のプログラムを書く場合、1+2=3になるように仕様を定義する。
このような場合、
 ●因果理論→足し算や仕様の「定義」が相当する
 ●前理論的因果判断→1+2=3のように「正しいと分かっている、もしくは確かめられる答え」に相当する。

規則性説と標準見解の不一致
3つのケースで、疑う余地のない因果判断と合致しないように思える。

  1. 科学はしばしば統計的証拠に基いて因果関係を特定する。そうした証拠のほとんどは、出来事タイプ間の確率的な結びつきであり、決定論的な結びつきを示すわけではない。(心理学はまさにこれ)
  2. 規則性説は、個々の出来事cとeをそれぞれのタイプCとEに関連づけることで定義されているが、個々の出来事は多種多様な出来事タイプに当てはめることができる。出来事タイプCとEにそれぞれ単称の出来事cとeが1つしかないように、出来事を過度に狭く解釈したり過度に広く解釈すると、全て(=1つ)の出来事タイプCが常に出来事タイプEを伴うため、何でもかんでも因果性だということになってしまう。そうならないための許容範囲を限定する方法がはっきりしない。
  3. 規則性説はきめの粗い理論であり、2つの出来事が因果関係にあるのか、それとも単に共通原因の結果として共に生じているだけなのか区別できない

ヒュームの因果性

ヒュームの哲学的立場
「経験主義」と「懐疑主義」。要約すると『「原因と結果の関係は、私たち人類とは独立に、自然のうちに客観的に存在する」と信じる根拠を持たない。』となる。(『人間本性論』Hume 1739、『人間知性研究』Hume 1748)

経験主義
「世界に関する知識は経験に由来する」とする立場。哲学的には「事実に関する知識は経験を通さなければ獲得できない」とする立場。経験抜きに知られる真理は「観念の関係」(単なる定義上の真理)であって、現実世界のあり方を教えてくれる「事実」にもとづいた実質的な真理ではないとする。

懐疑主義
「私たちは世界について確信がもてない」を強調する立場。哲学的には「私たちは事実について何も知らない」とする立場。この立場では、「各Cが原因で各Eが生じる」という判断に有利な証拠をどれだけ集めても、私たちは「観察されたCの実例がEの実例を生じさせる」のか、それとも「各Cに各Eがただ後続しているだけ」なのかは、決して知り得ない。

連合主義
「私たちが抱く観念は、原子的な(それ以上分割できない単純な)思考内容であるか、あるいは、原子的な思考内容の組み合わせである」という学説。ケンタウロスは、人間と馬がどういうものか知覚経験を通して得られた各原子的な思考内容のイメージを組み合わせたもの、と考える。

ヒュームの因果性
観察から「タイプCの出来事の後にタイプEの出来事が連続している」ことは断定できるが、これが繰り返し観察されると、私たちは「タイプCの出来事はタイプEの出来事に結合している」と断定するようになる。これは、「2つの出来事は、私の思考の中で結合関係を獲得しており、互いが互いの存在証明となるような推論を生むに至っている」という解釈が行われたことによる。この結合が因果性。

現代的ヒューム解釈

1. 投影主義
「私たち人類は、〈Cの実例を観察するとEの実例を予想する〉ように仕向ける自分の心理的な衝動を、対象自体へと精神的に投影している」という理論。ヒュームは、因果性を「ある対象に別の対象が後続する、すなわち、ある対象が出現すると常に思考が別の対象に向けられる」ことと定義していたことがる。このヒュームの定義は、〈原因を考えるとその結果も考えてしまう〉という衝動(心の活動)を、出来事の連続に投影していると考えられる。

書籍では、ヒュームは因果性をすべての青い対象に共通する物理的・化学的構造が存在しない〈色〉と似たものとして論じていると解説している。しかし、量子力学によれば、〈色〉は、物質がもつエネルギー準位の幅あるいは落差として共通の構造が明らかになっており、説明がおかしい気がする。量子力学がない時代の説明に基づくので、仕方ないのかもしれない・・・。

2. 因果還元主義
「因果性は「因果的活力」だの「出来事同士の根本的で法則的な結合」だのを一切必要としない」という立場。ヒュームは、原因を「他の対象eに先行し、かつ、近接する対象cであり、しかもその際、後者cに類似するすべての対象が前者eに類似する対象に対して同様の先行・近接関係にある」と定義したとき、因果還元主義を支持していたように見える。この定義こそ、規則性説の端緒。

3. 因果実在論
「因果関係は、人間やそれに類する主体の解釈とは独立に、世界の側に存在する」という立場。ヒュームは、「物体の相互作用がもとづいている原理を認識できるほど、物体の本質と構造を見通せる」ということに懐疑的だったが、「究極的結合」「作用原理」「ある対象が別の対象を生み出す力」に言及するとき、たとえ検証できないとしても、対象自体のうちに何らかの因果性が存在すると信じていたようにも思える。

読んでみて

以下の2つの感想を持ちました。

  • ヒュームの因果性は、物理学者としても妥当に見える。
  • ヒューム主義と反ヒューム主義は、機械学習と科学シミュレーションの予測方法に違いに似ている。

物理学との類似

物理学は、実験による観測結果(事実)を理論によって解釈(因果)しているので、理論には研究者が持つイメージとイメージの組み合わせ、つまり心理的な作用が働いているとしても不思議ではありません。

物理学では、ある現象に連続する別の現象が何度も観測されると、そこには何らかの〈力〉を仮定し、〈力〉によって現象の連続が説明できるかどうかを検証します。このとき、物理学者としては、もし「ある〈力〉を仮定すれば、現象の連続を上手く説明することができる」ことが検証されれば、それを理論として信じます。

ただし、このとき「ある〈力〉が実在するかどうか」はほとんど問いません。ヒューム主義的な立場から〈力〉は定義上の「観念の関係」にすぎないと言われれば、その通りなのかもしれません。

機械学習との類似

AIが発展した現在は、コンピュータを使った予測方法には(1)データをもとに機械学習する方法と(2)法則をもとにシミュレーションする2つの方法があります。

機械学習では、データからパターンを認識し、新たなデータをパターンに当てはめて、確率論的に結果を予測します。これは、原因(入力データ)と結果(予測結果)に根本的な法則はなく、コンピュータがパターンを法則として解釈した、と考えることができます。つまり、ヒューム主義によく似ているように思えます。

逆に、シミュレーション(主に科学シミュレーション)では、定式化された法則をもとにプログラムを作成し、そのプログラムを使って決定論的に結果を予測します。これは、プログラムという可能世界の中に、コードとして法則が実在していると考えることができます。つまり、反ヒューム主義によく似ているように思えます。

哲学としての理解は難しいですが、コンピュータとしてはこのように理解できるかもしれません。

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